ディベート×演劇

「子どもらが 自分の場だと 思う所に 花が咲く」(徳村彰)を、学校現場で目指します。

イザヤ16:6−14

6:我々はモアブが傲慢に語るのを聞いた。甚だしく高ぶり、誇り/傲 慢で驕っていた。その自慢話はでたらめであった。
7:それゆえ、モアブは泣き叫べ。モアブのすべての者は泣き叫べ。キ
ル・ハレセトで供えたぶどう菓子のゆえに/お前たちは打ちのめさ
れて呻け。
8:ヘシュボンの畑、シブマのぶどうは枯れた。かつて、その若枝は諸
国の支配者たちを押さえ/ヤゼルに達し、荒れ野にはびこり/つる
は広がって、海を越えたのに。
9:それゆえ、わたしはヤゼルのために/また、シブマのぶどうのため
に泣く。ヘシュボンよ、エルアレよ/わたしは涙でお前を浸す。お
前の果物の取り入れと麦の刈り入れに/鬨の声が襲いかかったから
だ。
10:わたしは果樹園から喜びも楽しみも奪う。ぶどう園で喜びの叫びを
あげる者も/酒ぶねでぶどうを踏む者もいなくなり/わたしは喜び
の声を終わらせる。
11:それゆえ、わがはらわたはモアブのために/わが胸はキル・ヘレス
のために/竪琴のように嘆く。
12:モアブが幾たび聖なる高台にもうで/その神殿を訪れて、祈っても
/何の役にも立たない。
13:これは昔、主がモアブについて語られた言葉である。
14:更に今、主は言われる。「雇い人の年期のように三年たてば、多く
の民を持つモアブの栄光は必ず終わり、わずかな者だけが残され、
力はうせる。」

自分は何を知っているというのだろう。どんなに本を読んだところで、その知識には限界がある。
どんなに考えたところで、個人の考えには限界がある。
にも関わらず、すべてを知っているかのように、したり顔で神について語る。

それはイブが蛇と話した状況と変わりはない。

高ぶり。それが神のみ姿を見えなくする。