ディベート×演劇

「子どもらが 自分の場だと 思う所に 花が咲く」(徳村彰)を、学校現場で目指します。

「アントワーヌ または挫折した恋」ジャン・アヌイ作 大久保輝臣訳

劇団四季の「ひばり」の作者だ。

まあ、あれこれあれこれ様々な手法を使って楽しませてくれる。

実にオーソドックスな劇という感じがする。

「現代世界演劇16」の岩瀬孝氏による解説には次のように書かれている。


一九一〇年代の流行作家だったアントワーヌは突然引退して、バヴァリアの山間の寒村にひきこもり、猟銃の掃除中に、自殺とも事故ともつかぬ死をとげた。彼は公証人に依頼し、遺言の開封の条件として、先妻、昔の情婦とその娘、老大女優、学生時代の愛人とその息子、友人の医師や劇評家などを家に集めさせる。彼らは雪崩で山道がふさがって山荘に閉じこめられ、アントワーヌが生前彼らへの呼びかけを吹きこんでおいたレコードを聞きながら、故人をめぐつて語りあい、さぐりあい、角突きあう。そのなかに、彼らの本心が自ら浮かんでくる。各人の回想のなかでアントワーヌもしばしば舞台に現われ、一同にまじったりする。彼は死ぬ前、この戯曲と同一題名の作品を書き、俳優を招いて自邸で演じさせようとした。その光景が第三事前半で演じられる。この場の俳優たちは他の幕での登場人物を演じることになるのだが、先妻エステルの役だけは若手の一女優(俳優は同じフランシーヌ・ベルジェ)となっていて、アントワーヌは彼女に役を説明して、エステルと愛しあいながら彼女が《生活》を求めて去り、彼は舐独を宿命としているためそれをとどめえなかったという真相を語るが、それはまた、彼が引退後この村で愛人としていた娘の去った事情をも説明しているのだ。山道が開通し、アントワーヌ追悼式を行なってから人びとは去ってゆく。エステルも学生時代の愛人ガブリエルもそれぞれ昔の男友だちと旧交をあたためる約束をし、青年と娘とは若い者同士で親しくなる。邸は釘づけにされ、アントワーヌの予見したとおり『桜の園』の事切れと同じになる。それを指摘する公証人に「そんな芝居は知らなかったわ」というエステルの言葉で幕がおりる。

 場所は一個所だし、時間も限定されているが、そういう条件は技葉末節にすぎない。右の紹介でもわかるように、リアルな設定でリアルな人物を動かし、華麗で軽妙な台詞を駆使して人間の内面を暴き出してゆく。しかもその一方で人間への信頼と愛情が息づいているのだ。たしかに、回想の肉化や劇中劇や死者の声などの技法で現実と非現実の境界をぼかす独自の舞台幻想、ときに残酷なまでの人間風刺をこめた台詞によって、アヌイの魅力は大きく発揮されているが、この基本構造は変わらない。それは、(1)真実らしさを外枠とする作法、(2)台詞=言葉の優位、(3)しだいに内面を暴き出してゆく手続き、(4)人間の実態を凝視しつつ人間への愛と信頼を捨てない姿勢…と要約できよう。

人間への愛と信頼を捨てない姿勢というところに、ほっとするものを感じる。