ディベート×演劇

「子どもらが 自分の場だと 思う所に 花が咲く」(徳村彰)を、学校現場で目指します。

寂しい食事

昨夜「スーパーサッカー」を見ながら仕事なんぞをしていたもので、寝たのが2時近くになった。

いつもなら6時に起きて長男とデボーションなのだが、そうすると礼拝中に寝そうなので、ちょっと寝坊して7時半に起きる。

食事をして教会へ。中学生会はスタッフのN長老が用事でいなかったので、ギターを弾く羽目になる。爪切っていないし、2弦が音狂ってるし、ハイコード押さえられないし、ということで、難儀いたしました。

時々来てくれる女の子が新しい友達を連れてきてくれた。感謝。

今日も次男と三男を連れて礼拝に出席。礼拝メッセージをマインドマップにまとめながら小学2年生の三男に時々説明する。けっこうわかってくれる。

今日はエルサレム入城の所。イスラエルの民が熱狂的にイエスを迎えたのは、凱旋将軍を迎えるように、この世でのローマの支配に対して、何らかの変化をイエスがもたらしてくれることを期待してのことだった。そこには二匹の魚と五つのパンの奇跡のように、今腹を満たしてくれるものを求めてのことだった。

彼らがホサナ!と叫んだのは、現世での利益を求めてであり、相手がイエスである必然性はなかった。したがって、イエスが現世的な利益をもたらさず、十字架で処刑されることになった時、失望は大きな憎しみへと変わった。

一方、イエスのエルサレム入城は、ロバの子に乗ってのものだった。

民衆は、現世でのローマの支配を恐れ、その支配から逃れることを願った。

パリサイ人たちはローマを刺激することを恐れ、ただ現状維持、事なかれを願った。

しかし、イエスは何よりも神を恐れた。したがってその姿は謙虚なものであり、平和をもたらす救い主としての姿だった。そしてその姿は旧約聖書の中で予言されていた。

このイエスが十字架につけられたことで私達に永遠の命が与えられた。現在ではなく、その未来の約束を感謝し、喜ぶことに我々の信仰の意味がある。

そんなことを一枚の絵にまとめた。まとめてみると、僕の方でも話の内容がよく頭に入るので、一石二鳥だ。

さて、今日の昼食は肉じゃがに昆布の炒め物に、千住キリスト教会からいただいたキムチ。おいしいキムチが出るので、みんないつもよりご飯を食べるだろうと、食事当番が大目に炊いてくれたのだけれど、大人子供会わせて30名いない。いつもは40名以上いるのに。

実はドラムを習っているこの発表会が午後すぐにあったので、そちらを見に行った人がけっこういたのと、風邪で欠席した人がおおかったのだ。おかげでものすごい量の肉じゃがやキムチをいただくことになった。

昼食後の洗い当番、今日は男性。ということで、5人でバシャバシャと洗う。僕は平信徒だけれど、一緒に洗い物をしていたのは牧師に長老に執事。和やかにおしゃべりをしつつ洗い物をし、終わってからコーヒーを入れてしばし雑談に興じる。

納豆を韓国からのお客さんに食べさせるという話から、下手物食いの話で盛り上がる。

帰宅して「今、ここで」を打つ。