ディベート×演劇

「子どもらが 自分の場だと 思う所に 花が咲く」(徳村彰)を、学校現場で目指します。

1月17日

僕にとって、忘れられない日だ。

1991年1月17日、長女が誕生した。同日、湾岸戦争で「砂漠の嵐作戦」がパパブッシュから宣言された。

ロサンゼルス大地震もこの日だったと思う。

そして、1995年1月17日、阪神大震災

その頃、今と同じ東大和市内の、昔は独身寮だったというアパートの二階に暮らしていた。下の家の音が筒抜けになるような6畳二間のアパートで、当然、こちらの歩く音なども、下には筒抜けだった。

あの朝、とにかくグラッと来て、連れ合いも僕も飛び起きた。すぐにドアを開けて避難路を確保した。

テレビをつけると、関西方面で地震があったということがわかった。

まだパソコン通信も始めていない頃だったので、情報はテレビからしか入ってこなかった。

幸か不幸か私の知り合いで被災した人はほとんどいなかった。しかし、あの戦後の焼け野原のような映像はショックだった。

そして、ボランティアというものが日本に根付いた事件だったようにも思う。

神戸新聞のサイトに震災10年を語るという特集が掲載されていた。

当時の村山首相のコメントも載っている。次のコメントが印象的だった。


―震災一年を目前にした九六年一月、首相を辞任した。

 自分の判断だった。下河辺淳さん(元国土事務次官)に委員長をお願いした復興委員会の報告が出て、復興対策も軌道に乗り始めた。

 村山内閣の能力に、限界を感じていた。首相を引き受けた時点で、過渡的な政権だと思っていた。

過渡的な政権を襲った大災害。だから対応が後手後手に回っても仕方がなかったと言えるのだろうか。それは言い訳だろう。それに当時本当に「過渡的」と考えていたのだろうか。社民党党首が首相になり、「日本はこれから変わる」そんな期待も盛り上がっていたように思う。

しかし結局、「お上はいざという時に頼りにならない」そう実感させる出来事になってしまった。

作家の宮本輝氏は次のように述べている。

 小説の後半に、最初予定していなかった「誇りと正義」という言葉を書いた。震災後の国に対する大きな不信感がそうさせた。国は結局、被災者に「お前ら勝手に生きていけ」と言ったのも同じ。仮設住宅は建てたかもしれんが、家が壊れた人やローンに苦しむ人たちには「知るか」と言った。この国は国民を守ってくれない、と思った。

村山氏は「私有財産の壁に阻まれた」というが、本当に助けが必要だった人へ、救いの手は伸ばせなかったのだろうか。

さまざまな人の振り返りの中で、劇作家の山崎正和氏の次の発言は、芝居に多少とも関わる者として蒙を啓かれる思いがした。

―まず取り掛かった仕事は?

 真っ先に頭をよぎったのは、被災地で文化活動に否定的な考え方が広がるのではないか、ということだった。関東大震災前の日本は、東京を中心に文化が成熟し、近代化への道筋ができていった時期。そこへ起きた震災は、自由やぜいたくへの天罰だと受け止め、質実剛健を目指そうという反文化的な動きが出てきた。

 阪神・淡路大震災後の関西でもすでに、テレビ番組や行事を自粛する動きが出ていた。文化の宝庫である兵庫で、生活の回復に紛れて、文化活動の自粛が起こってはならない。危機感を持った私は、「兵庫でおにぎり(生活復興)か文化かといった二者択一は間違っている」とした考えをさまざまな形で訴え始めた。

他にも、小室等氏、佐渡裕氏など、芸術に関わる人のコメントが紹介されている。

極限状況に追い込まれた時に、それでも人間はただ生きている以上のものを求め、それによって自らを奮い立たせていくことができるのかもしれない。

ここに来て、新潟中越地震スマトラ沖地震と津波の被害などが耳目を集めている。

阪神大震災の経験から、私達が汲むべきことは、依然として多い。