歌は終わった。しかしメロディーは流れ続けている。
うろ覚えだが、村上春樹の小説の中にそんな一節があったと思う。「ぼく」が「ジェイズバー」で「ジェイ」相手に語るシーンだ。
アヒルと鴨のコインロッカー
村上春樹の「風の歌を聴け」を読んだ大学生の頃。見事にはまって「1972年のピンボール」や「羊を巡る冒険」などなど、むさぼり読んでいた。あの頃を思い出した。村上の、瑞々しかった頃の小説を彷彿とさせる。
「どうしようもない喪失感」
この本は、村上春樹の本を読んだ時に味わった、あの思いを再び想起させる。「村上の小説にはいつもBGMが流れていた。「ノルウェイの森」のように。この小説では、ボブディランが流れている。
現在と2年前の世界を交互にたどりながら話は進んでいく。やがて同じ街、同じ人々の中に、「ある人物」が欠けていることに読者は気付く。その代わりに、「僕」はこの街にやってきた。しかし、「歌はすでに終わっている」。
2年前の「事件」のせいで、「僕」以外は、確実にそのあり方を変えざるを得なくなっている。それぞれが痛みを抱え、その痛みをどう処理するかがそれぞれの行動となって現れてくる。作者をそうした行動を乾いた文体で描いていく。
大学生の頃、ジェイズバーのような、大人の雰囲気のするバーに一人で出かけていった。村上の本に随分感化されたものだと思う。さて、この本を読み終えて、僕はどこへ出かけたくなったか。それは野毛山動物園。あそこにはレッサーパンダがいる。