ディベート×演劇

「子どもらが 自分の場だと 思う所に 花が咲く」(徳村彰)を、学校現場で目指します。

修学旅行5日目

 今日は朝食が7時なので、わりあいゆっくり寝ていられる。それでも6時前には起きているが。

 朝の礼拝を担当。修学旅行で学んできたことを知識として終わらせるのではなく、そこからいかに自分なりの質の良い「問い」を持つことができるかが大切だ、という話をする。

 朝食はバイキング。生徒達は九割がパン食。おいしい明太子とキムチもあったのだが。ぼくは和食とおいしいコーヒーで満足。

【フィールドワーク】

 バスに乗って平和記念公園へ。

 9班と森口さんという小3で被爆された方と一緒に原爆遺跡を回る。もと小学校の先生ということで、やさしい語り口調。生徒達に、どういう心構えで聞いて欲しいかという所から話を始められる。朝、礼拝で語ったこととリンクしているので、感謝。「私は昔話をしようとしているのではありません。皆さんに、今の問題として考えて欲しいのです」といって、原爆の写真を示し、「ファットマンだとか、リトルボーイだとかいう名前を知っている、なんてことを聞くと悲しくなる。プルトニウム長崎型原爆、ウラン型原爆という言葉を覚えて下さい。理由はあとで説明します。」とおっしゃる。

 「松尾あつゆき句碑」をメインテーマとして、平和公園→山里小学校→如己堂→浦上天主堂→松尾あつゆき句碑→爆心地をめぐる。

 最初に平和記念公園の刑務所跡で、福田須磨子さんの「ひとりごと」という詩を紹介していただく。

何もかも いやになりました

原子野に屹立する巨大な平和像

それはいい それはいいけど

そのお金で 何とかならなかったかしら

「石の像は食えぬし腹の足しにならぬ」

さもしいといって下さいますな

原爆後十年をぎりぎりに生きる
被災者の偽らぬ心境です(以下略)

 平和祈念像がなぜ嫌いなのかという話をして下さった。ちなみに平和祈念像の作者である北村西望はうちの第2代PTA会長だ。だから擁護する、というわけじゃなく、是は是、非は非として、被爆者の方の意見をお伺いすることが大切だと思う。そうじゃないと、当時のお金で3000万円もの費用を投じた平和祈念像が建立される脇で、国からの援助もなく、木の実を拾って人形を作ったり、絵はがきを作ったりして、それを売って、その日の暮らしを立てていた人達の苦しさというのは分からない。

 僕達が森口さんのお話を伺っている横を、バスガイドが旗を持って案内して行った。25年前、修学旅行に来た僕の姿がそこにはあった。平和のシンボルとしての平和祈念像だけを見、自分は平和な時代に生まれて良かったとホッとしている自分の姿がそこにはあった。

 当初の予定にはなかったが、山里小学校へ。永井博士が建立した記念碑を見る。「如己堂を見る前に、ここを見て欲しかった」ということで、山里小学校で被爆された方のお話をして下さる。亡くなった子どものお母さんが作詞したという歌も歌って下さる。

 その後、如己堂へ。如己堂の裏の永井博士の記念館に入る。ビデオを2本見る。「ちょうどこの辺りでロザリオは発見された」と場所も教えて下さる。

 その後、展示を見て行く。永井博士が診察を受けている写真の前にみんな集まる。永井博士のお腹が妊婦のようにふくらんでいる。その写真の説明をした後、一枚の写真を見せて下さる。一人の少年が、永井博士と同じようにふくらんだお腹をして横たわっている。

 「これは、実は現在の写真です。どこの国の子どもかわかりますか。…イラクです。」

 劣化ウラン弾の使用によって、イラクで多くの人々が被爆しており、その援助を日本にも求めてきているという。しかし、こうした事実をアメリカは公表することを禁じているのでほとんどニュースとしては流れない。

 「原爆の名前を正確に覚えてほしいといったのは、原爆と同じものが戦争で使われ、そして長崎や広島と同じ被害を受けている人が、今いるということを知ってほしかったからです。知らないということは恐ろしいことなんです。」

 そんな話をして下さった。

 次に向かったのは浦上天主堂だった。永井博士の奥さんの家が、潜伏キリシタンの帳方(ちょうかた)の家柄だったという話を伺いながら、歩く。(潜伏キリシタンの生活

 浦上天主堂には前にも何回も来ているが、中に入っても、前の方までは行くことができなかった。カソリックの学校ならできるのだが。ところが森口さんは、入り口の係の人にお願いして、中まで入れてくれた。入って右側のところにある、焼け残ったマリア像を見せて下さる。

 さらに出てきてから、浦上四番崩れの碑を紹介してくれたのだが、柵で囲われたその碑の近くまで、「先生だけ来て確認して下さい」と言ってくれて、近くに行くことを許して下さる。浦上の潜伏キリシタンの弾圧の中でも、最後にして最大といわれた弾圧が浦上四番崩れだ。(浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧

 本を読んではいたが、こうして実際に全国26の藩に連行された記録をみると、その過酷さが忍ばれる。

 昨日の講演者の松尾さんのおばあさんは、五歳でこの四番崩れを体験し、80歳で被爆をしている。したがって浦上のカソリックの方々は「神様は私達に2度試練を与えられた」と言っていたという。

 ところが、ヨハネパウロ2世が浦上に来た時、こう言ったという。「神はこのような試練に人を会わせません。これは人間の業です。しかし、人間の業なら人間によって止めさせることもできます。」

 だから、浦上では、平和に対する活動が非常に活発なのだという。「人間の業なら、人間によってやめさせることもできる。」この言葉が心に響いた。

 最後に爆心地公園のそばにある松尾あつゆき句碑の所に来る。お話を伺っていると、偶然、永井博士のところで看護婦さんをされていた方が通りかかる。さっき見たビデオの中にも登場されていた方だ。偶然の出会いにみんな感激する。

 荻原井泉水に自由律俳句を学んだ松尾あつゆきは、最初英語の教師をしていたが、戦争を批判したため、職を追われる。しかし、そのおかげで原爆による死から逃れられることができたのは皮肉だ。 
 子ども3人と妻を被爆によって失っている。

降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ

 句碑にはこの句が刻まれている。

 4歳の宏人ちゃん、生後七ヶ月の由起子ちゃんは、奥さんと一緒に被爆し、あつゆきさんが到着した時にはすでに亡くなっていた。宏人ちゃんは、水をあげたくても水がないという状況の時に、近くに落ちていた木の枝を加えてサトウキビのようだと言って死んで行ったという。

臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい

 長男の海人君は、まだ息があり、「お父さん、僕は大丈夫です。お母さんは無事ですか」と聞いてきたという。「お母さんはあそこにいるよ」というと喜んで、「お父さん、水を一杯下さい」と頼むので、あちこち探して、水を持ってくると、母親のそばまで這って行ってニコニコ笑っていたという。近づいて行って「さあ、海人、水だよ」と呼んだが、返事がない。見ると、もう事切れていた。

母のそばまではうでてわろうてこときれて

 子ども達を荼毘にふしたあと、奥さんもうわごとを言うようになり、とうとう亡くなってしまう。その奥さんの亡がらを焼いている時に玉音放送が流れた。それが句碑に刻まれている句だ。

 「原爆によって10万人近くが死んだとか、人数のことをあれこれ言う人がいるが、そうじゃない。松尾さんのように、一人一人の人生が、こんなに悲惨になったということを、知ってほしいんです」と森口さんは話してくれた。

 その後、爆心地まで行き、一緒に写真を撮ってお別れした。