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ディベート×演劇

「子どもらが 自分の場だと 思う所に 花が咲く」(徳村彰)を、学校現場で目指します。

11−120207[日記][RW][論説]読めない本文

「である」ことと「する」ことの授業も終盤。
中学入試前に提出させたストックノートをチェックしていて、内容を良く理解している生徒とそうでない生徒では、評論で使われている用語への注意の向け方に差があることに気がついた。
予習で評論用語を抜き出すことを指示しているのだが、よく理解している生徒ほど、評論用語を抜き出すだけでなく、意味も調べている。対して「内容がつかめない」と感想に書いてくる生徒は、評論用語を抜き出していないか、抜き出しても意味調べまで至っていない。
そこで、以前西川純先生が講演で紹介されたパワポをヒントに、次のようなプリントを作成し、ミニレッスンを行った。

 
 アメリカのある社会学者が「自由を祝福することは易しい。それに比べて自由を○○することは困難である。しかし自由を○○することに比べて、自由を市民が日々○○することはさらに困難である。」と言っておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを○○している間に、いつのまにかその自由の○○はからっぽになっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのでなく、現実の○○によってだけ守られる、言い換えれば日々自由になろうとすることによって、初めて自由でありうるということなのです。その意味では○○○○の自由とか○○とかいうものは、どうやら生活の○○を好む者、毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、物事の○○などは人に預けてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々と寄りかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷やっかいな代物だといえましょう。
     (中略)
 ○○○○というものは、○○が本来、○○の自己目的化――○○化――を○○に○○し、○○の現実の働き方を絶えず○○し○○する○○によって、初めて生きたものとなりうるのです。それは○○○○という名の○○自体についてなにより当てはまる。つまり自由と同じように○○○○も、○○の○○化によってかろうじて○○○○でありうるような、そうした性格を○○的に持っています。○○○○的○○とは、○○や○○よりも○○○○を重視することだといわれることの、最も○○の意味がそこにあるわけです。
 このように見てくると、○○は○○することによって○○でありうるという○○○○は、およそ○○○○の○○や○○○、ないしは物事の○○のしかたを深く○○している「○○」にまで広げて考えられるでしょう。

前半部分、虫食いにはなっているものの、「言い換えれば」という言葉を手がかりに、「日々自由になろうとすることによって、初めて自由でありうる」という部分が大切なのだろうという推測はつく。
最後のたとえの部分も残っているから、言いたいことの推測は可能だ。
しかし、後半部分はどうだろう。
「つまり」という言い換えに着目したとしても、「自由と同じように○○○○も、○○の○○化によってかろうじて○○○○でありうるような、そうした性格を○○的に持っています」では、何が何だかわからない。
「このように見てくると」に注目しても、「○○は○○することによって○○でありうるという○○○○は、およそ○○○○の○○や○○○、ないしは物事の○○のしかたを深く○○している「○○」にまで広げて考えられる」では、まとめが書かれていることは推測できても、言いたいことはわからない。すると、わかったふりをするか、「○○は○○することによって○○でありうるという○○○○は、およそ○○○○の○○や○○○、ないしは物事の○○のしかたを深く○○している「○○」にまで広げて考えられる」というフレーズを呪文のように暗記ずるしかなくなってしまう。

これでは評論はいつまでたっても読めないし、理解できない。
だから、まず「○○」の部分がわかるようにしよう。個人で解決できれば解決し、それでもわからない所は、みんなで話し合ってつながりを見つけていこう。