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救急車をタクシーと思うべし

西部さんのブログで救急車論題のことを取り上げていたが、ちょうど読んでいた隆慶一郎

時代小説の愉しみ
時代小説の愉しみ

の中でタイトルのような一文があったので紹介させていただく。


 古い苦い思い出がある。二十年も前の話しだ。母一人子一人という若い友人がいた。友人はゼンソク持ちで、家ではしょっちゅう発作を起こしていたらしい。ある晩おそく、というより明け方に近いころ、発作が起きた。薬も使ったが、おさまらない。苦しさは極限に達した。

「救急車呼んでよ、お母さん。死んじゃいそうだよ」

 母親は時計を見た。朝の四時。こんな時間に救急車を呼んじゃ悪い、と思った。タクシーも走っていない時間である。

 「あと二時間、我慢おし。そしたらタクシー拾ってきて上げるから」

 母親はそう言った。そして一時間半たった五時半に、彼は死んだ。

 「私が殺したんです。私が殺したんです」

 通夜の席で、母親はそう言っては泣いた。

 僕はただただ無念だった。これから何十年かの間に彼が送ったかもしれない素晴らしい人生、彼が成しとげたかもしれない素晴らしい仕事を思って、無念やる方なかった。母親を責めるのは酷であろう。それにまた病院にいっても彼はしんだかもしれない。だが母親に、救急車をタクシーだと思えるくらいの気やすさがあったら、ひょっとして彼は助かったかもしれないのである。母親の気持ちの中には、こんな時間に、といった遠慮と、ご近所にみっともない、という奇妙な意識があった。これは今の若者にもはっきりとある。カッコワルイ、という表現に変わっただけである。だから僕はタクシーを呼ぶのが、どうしてカッコワルイか、といって怒鳴るのである。あんな無念な思いは、二度としたくないのである。

 真鍋かおりさんも、ひょっとして「カッコワルイ」という意識があったのかもしれない。芸能界に生きる人間が、救急車で運ばれて、それがまた芸能ニュースに取り上げられることのかっこうわるさ。

 まだ売れていない芸能人なら、なんでもニュースとして取り上げられれば喜ぶのだろうが、ある程度人気がある人の場合は、名前が流れるにしても、「流れ方」を気にしてしまうのではないか。

 そんなことを思った。