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「近代能楽集」三島由紀夫

近代能楽集

三島由紀夫に付随するイメージが嫌いだ。幼い日に映像として見た、三島の割腹自殺が、マイナスイメージとして僕の脳裏にこびりついている。

授業で「金閣寺」を扱ったこともあったが、必要最小限しか触れなかった。

ルームルーデンスが「近代能楽集」をやるというので、気が進まぬながら、読み始めた。

「邯鄲」は、学芸大の演劇学ゼミがやったのを見た。95年頃だったか。主演したゼミ生を「君は役者は辞めた方がいい」とかなり辛辣に小林先生が批評していた。ただ、筋の方があまり覚えていなかった。

こんな話だったか、とちょっと意外に感じた。田辺さんが「三島は天才だ」と言ってたけれど、それほどのものかな、と読んでみて鼻白んだ。

しかし、「綾の鼓」からちょっと「これは・・・」と思い始めた。前半しゃべらなかった華子が後半しゃべりだす。そのセリフの一つ一つのきらめきは何だ。

こりゃ、言葉の宝石じゃないか。

女の中には恋の証拠がいっぱいあるのよ。その証拠を出したら最後、恋でなくなるような証拠がいっぱい。でも女が証拠を持っているおかげで、男の人は手ぶらで恋をすることが出来るのよ。

どうやったらこんな言葉が出てくるんだ。

「卒塔婆小町」になるともういけない。小町の美しさが目の前に浮かんでくる。そして一瞬の後、老婆に変わってしまう。ああ、見たい。舞台で見たい。

「葵の上」生徒を連れて国立能楽堂へ「葵の上」を見に行ったのももう10年も前だ。「換骨奪胎」なんてもんじゃない。これはたしかに「近代」だ。「能楽」という枠組みだけを残して、中身はすっかり現代の芝居になっている。しかし、この言葉の一つ一つの洗練され方は何だろう。

夜というのは、みんなが仲良くなる時なのよ。昼間は日向と影が戦っている。ところが、夜になると、家の中の夜と、家の外の夜とは手を握ってるの。それはおんなじものなの。夜の空気は共謀しているんだわ。憎しみは愛と。苦しみは喜びと。何もかもが、夜の空気の中で手を握るの。人殺しは、暗がりのなかでは、自分の殺した女に親しみを感じる筈だわ。

ぞくぞく〜っと背筋をはい登ってくるものを感じる。こんなセリフを千賀さんに読んでもらったら、もう失神してしまうかもしれない。

読みながらかなりの興奮状態に陥ってしまう。

「班女」この間、謡曲集で「班女」を読んだばかりだ。謡曲のイメージとは全然違う。第一、班女は恋しい男と扇を交換しあい、ハッピーエンドになる筈なのに、三島版では、男が来ても気付かない。証拠の扇は意味をなさない。彼女は待ちつづける。

そして「道成寺」。うわあ、これはケレンをたっぷり使える戯曲だ。大きな鐘の代わりに、鐘の模様を施した巨大な洋服箪笥なんて。

箪笥から出てきてからの清子のセリフがいい。一つ一つがすごく印象的だ。

日夏耿之介の「サロメ」は文語の精緻な宝石箱のようだと思ったけれど、三島由紀夫の作品は口語の錦織だね。

「熊野」の宗盛のこのセリフなんてその複雑で美しいことは複雑な織り模様を浮かび上がらせる錦に引けを取らない。

どうしてそんなに自分の感情を大切にするんだ。ユヤ。それは一種の病気だよ。そうして自分の悲しみと楽しみとの不調和をいろいろと気にするが、世間の人たちの好きなのは不調和なのだ。相容れないものが一つになり、反対のものがお互いを照らす。それがつまり美というものだ。陽気な女の花見より、悲しんでいる女の花見の方が美しい。そうじゃないか、ユヤ。君は全く美しい。美しいから二つのものを、本来相容れない二つのものを、一つにしてしまう力を持っているんだ。君が悲しみながら花見に出るのは、君の美しさの招いた定めだよ。

俗物、俗物、俗物。この中年男のいやらしさ。こんな男の形象をどうして創造できるのだろう。しかも、このセリフには、僕が普段常識として安住しているものを見事にひっくり返す力を持っている。自分の感情を大切にするのが病気だって?不調和が美だって?なんだってそんなことを語れるんだ。

「弱法師」。終幕近くの級子のセリフ。

あ、今公園の街灯がひとつのこらず灯をつけましたわ。空は燃えさかる炉のようで、森の緑はひときわ明るいのに、一列のあかりが磨かれない青い宝石みたいに、おずおずと光っていますわ。

いつか夢に見た情景だ。それとも現実に見たことがあったか。明るさばかりが描かれているのに、焦燥感と迎える夜に対する恐怖感が情景とともに僕の中に大きくなってくる。なんだろう、この感覚は。

参った。脱帽だ。三島を敬遠していた僕が愚かだった。三島由紀夫は天才です。認めざるを得ない。

2月18日(金)から20日(日)まで、西新宿TJPスタジオで「道成寺」が上演される。うちのOGも出演するというし、これは見に行かないとな。