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『ドキュメント東京大空襲』

私の父と祖母は砂町で東京大空襲を体験している。
一緒に逃げだ叔母が行方不明になったままだ。
父は生前、「町全体が血で真っ赤に見える」と言って、南砂の町に私を一度も連れて行こうとしなかった。

<a href='http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4104056057/nade-22/' target='_blank'><img src='http://ecx.images-amazon.com/images/I/51XGKPHa8lL.jpg' width='340' height='500' alt='ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う' title='ドキュメント 東京大空襲: 発掘された583枚の未公開写真を追う' /></a>

去年、2.11反対特別授業で東京大空襲を扱ったとき、見たのは1978年の「NHK特集 東京大空襲」だった。ナレーションで久しぶりに中西龍さんの声を聞いて感激した。
この番組の中では、当時のルメイ司令官東京大空襲の責任者として追及されていた。

しかし、今回この本を読んで、(もう常識なのかもしれないが)ルメイが司令官となるはるか以前に、東京大空襲が計画的に準備されていたことを知った。

精密爆撃と無差別爆撃。

一万メートルの高度から、精密爆撃をすることの難しさに思い至らなかった自分がいる。
航空隊を空軍に格上げするための実績作りとして無差別爆撃は繰り返されたという。
父から「絨毯爆撃」ということばを聞いていたけれど、その恐ろしさを改めて今回の本を通して知ることができた。
東京の下町は木造家屋が密集していた。当時の映像を見ると、軒と軒が触れ合うばかりに建っていて、路地は幅が1メートルもないように見える。そこに二百七十機のB29が来襲し、一千六百六十五トンもの焼夷弾が投下された。
ちなみに焼夷弾がの「夷」という字だが、「傷夷(痍)軍人」という時にも使われるが、こちらは傷という意味。
「焼夷弾」の場合は「滅ぼす」「皆殺しにする」という意味になる。
密集した木造家屋はあっという間に燃え広がり、さらに火災の時に起こる旋風によってさらに火勢は増していった。
上空を飛ぶB29までも、あおられてコントロールを失いそうになるほどだったという。
通りを火の粒が奔流となって流れており、とてもじゃないが通りを横断することはできなかったという証言も出てくる。

しかし、大空襲は3.10だけではなかった。
そのことが克明に描かれていく。

ちなみに私の父は東京から横浜に逃れ、こちらでまた横浜大空襲に遭っている。
よくぞ生き延びたと思う。

そして、10万人以上の死者を出しながらも、東京に住む人々は、自分の生活を建て直し、今の東京の基礎を作っていく。
その根底に「もう二度と戦争を繰り返してはならない」という悲願を込めながら。

『あゆみ』に対する勝手な妄想

都大会で観た田無第四中学校の『あゆみ』(柴幸男作)。素晴らしかった。
涙があふれて止まらなかった。
平凡な毎日へのいとおしさ。それを強く感じる芝居だった。

それだけに「平均からこぼれ落ちる者たち」を強く意識してしまった。
人が一生に歩む歩数。平均して何歩だったか、膨大な数が出てきた。

しかし、一歩も歩むことなく去っていく者もいる。
長寿を全うしないで、突然の事故や病気であゆみを止める者もいる。

結婚しない人も、あえて子供を産まない人もいる。
望んでも子供を授からない人もいる。

あゆみで描かれる女性の人生は、だから平均でも何でもなく、最大公約数でも何でもなく、じつはとても特殊な生涯なんじゃないか。

原発事故を体験してしまった今はとくにそう思う。

そんなことを考えていたら、改めてワイルダーの『わが町』の素晴らしさを痛感した。
一二幕のグローバーズコーナーの平凡な毎日の丁寧な描写と、三幕の死後の世界の対比。
人生半ばで生涯を終えざるを得なかった人々のつぶやき。

もしかしたら、柴さんは『あゆみ』では『わが町』を超えられないってことを痛感したんじゃなかろうか。
そんなことを妄想する。
で、『わが星』を書いたと。

『わが星』って、『わが町』へのオマージュだなあとずっと思ってたんだ。
今回『あゆみ』を見て、自分の中の妄想がカチリとはまった気がした。

動かない時は動くな。動く時は大きく動け。

芝居を始めた時に指導されたのがこのことだった。
舞台に立ったことがなかった私は、演技をしているつもりでセリフを発している体がフラフラと動いていた。
そして、おずおずとちょっとずつ、ずりっ、ずりっと動いていた。
つまりは演じる身体ができていなかった。
身体の中心線が定まっていなかった。
授業でもこれは共通する。
身体がフラフラしていては言葉は生徒たちに届かない。
ズルズルグダグダ喋っても、生徒たちには伝わらない。
腰を決める。
動かない時は動かない。
動く時は大きく、さっと動く。
そのための身体が準備できているか。

私の謝罪に対してエーミールのとった行為は正しかった。

一年生の授業のまとめとして「少年の日の思い出」を扱います。

意見文を書いてもらいます。
表題の主張を本文から根拠をあげて論証してもらおうと考えています。

私はこの作品を読んで、エーミールが主人公の謝罪を拒否するところが、この作品の肝の部分だと考えました。
主人公の視点に寄り添って読んできた読者にとっては、このエーミールの行為は許せないと感じるところでもあります。
言葉にできずとも、何か精神的にざらざらしたものを感じるというか、「むかつく」というか、そういう感じを受ける部部ではないでしょうか。

芥川龍之介の「トロッコ」で主人公が「われはもう帰んな」と言われたシーンと重なって見えます。
世界は自分とは無関係に存在しているというか、自分の行動の責任は自分でとらざるを得ないというか。

それと、エーミールの描き方が主人公の目を通して描かれており、主観的なものに過ぎないということも気付いて欲しい。

等々、やっぱり欲張りかなあ。

実は「少年の日の思い出」を授業で扱うのは初めてです。

皆さんはどんなアプローチをされていますか。

東京都中学校合同演劇発表会2日目

中学の演劇は高校よりも顧問の方向性が出るんだなということを感じる。
いい悪いじゃなく、メッセージ性がより強い。今日もそれぞれにメッセージ性の高い4作品を観劇することができた。
「交番へ行こう」のハートウォーミングな内容、「空の村号」の社会性、甲乙付け難い。どちらも中学生が演じているという事実に、ただただ圧倒される。
指導されている方々の並々ならぬ力量を感じる。

今日も午後から観劇。
「交番へ行こう」南大谷中炎激部
中割り幕をしぼって交番のセットを上手に配置している。
こういうキャストが大人がメインのハートフルな芝居を中学生が演じ切ったことにまず驚いた。
会話劇として十分楽しんだ後、クライマックスの自転車の疾走シーン。斜幕に走り去っていく夜の映像を映し、パトカーが接近する所では針幕の裏で赤色灯を映し、ダンプカーを避けて飛び上がるシーンでは、豆球の光が針幕の裏で上から降りて来る演出で観客を大いに沸かせた。
交番の脇の壁が足つきのパネルになっていたのは、このシーンで後ろへ流れ去る物体を表すための計算に基づいていたんだ。動かす見えない人たちが街中の声も表現いていて見事。
恐らく20代の新前警官と、40代のベテランで、しかもちょっと人生を斜め上に生きてる巡査部長のコンビが、はっきりとしたコントラストを描いていて、安心して観ることができた。肩車した2人羽織(!)の超巨大老人とか、リハビリのため、杖をついて超高速で散歩する中年婦人とか、ありえないけれど、ま、いっかと思わせてしまう強引さが潔くて好感の持てる舞台だった。

「空色涙」あきるの市立秋多中学校
「自分だったらこう演出するなあ」ということが見ながらあれこれ湧いてくる作品だった。
肝臓移植のドナーを待っている主人公。
多分、娘の入院していた時のこととか、白血病で逝った教え子のこととか、父の癌が肝臓に転移してもうどうしようもなかったこととか、あまりにも病院というシチュエーションから溢れ出てくるものが多いからだろう。
この年まで生きていれば、何度か近しい人との別れを体験している。
そのことと作品世界とをどうしても結びつけてしまう。
だから一つ一つのアイコンを大切にしてほしい。
そこから流れ出てくるのは本当にそれなのか。

「ミッションE」東村山第二中学校
近未来の子どもが極端に減った世界。14才まではモニター越しでしか他者と関われなかった子どもが、コミュニーケーションキャンプで初めて同世代の子どもと生活をし、人間としてのつき合い方を学ぶ。しかも今年はそのキャンプに、ロボットが加わるという。
子どもたちのキャンプが下手側に、キャンプの様子をモニターする3人の研究者が上手側にいて、物語は進んでいく。
ロボットはいったい誰なのかという謎解きの面白さと、このキャンプを通して何が明らかになるのかというさらに大きな謎が知りたくて、物語の中にひき込まれていく。
誰も見たことがない「ゾウ」を作ろうというケイの提案が、研究者たちのシナリオを狂わせ、ロボットを機能停止に追い込む。
しかし、「ロボットでも友だち」というケイの言葉に、研究者たちも救われる。なぜなら、ケイ以外のすべての人が、実はロボットだったから。
「ロボットに学習能力を持たせた」という研究者の言葉は、自分について語ってもいたのかと思い至った。
しかし、「ミッションコンプリート。シャットダウン」と宣言してロボットがすべてシャットダウンしたのは確かに衝撃的なんだが、ケイがどうなってしまうのか、心配になる。
学習能力を身につけたロボットは、人間の想像力を手に入れることができるだろうか?
決してめでたしめでたしでは終わらず、観客に結末を委ねる終わり方だった。バン!と切ったのに、逆に余韻を感じた。
「空の村号」
宇宙戦艦ヤマト」をもうカラオケで歌うことはできない。というかしない。
震災をこれだけま正面から捉えた作品を私は知らない。
小学5年生の空が、ドキュメンタリーを撮影するアキラ監督に、自分はフィクションの映画を撮ると宣言し、友人2人と妹と放射能を撒き散らす悪ぃ役を倒す冒険映画を撮り始める。
それはまさに子どもの頃に誰もが経験した「ゴッコ遊び」だ。しかし、現実から逃避して、フィクションの世界に没頭しようとしても否応なしに現実が顔をのぞかせる。その姿はまた現実から目を背け遊興に現を抜かしている日本人批判でもある。辛い現実の中で信頼し合う村民たちが二分され対立し合う。村を愛するがゆえ、家族を愛するがゆえ、対立してしまう。それは夫婦の間でも…。
黒子が大量に働き回って、素舞台の舞台なのにそれぞれの場面がしっかりと目の前に浮かんでくる。ほとんど暗転を使わず、転換していく手法は見事だった。
エンディング近く、海からの風にこいのぼりが翻る。子どもが元気に育っていくことを願うこいのぼりが、放射性物質を大量に含んだ風によって翻るアイロニー。汚染されていない世界に、村ごと飛び上がって行けたらという幻想は、喪われた共同体への愛情と、そんなフィクションはありえないという絶望感とが示されていて、胸がしめつけられた。
緞帳が下りてきて閉まる直前、東京へ去る子ども二人を見送っていた母親が崩れ落ちるシーンが家族さえも引き裂かれていく現実のムゴさが現わされていた。
「東京へ行ったらもっと勉強する」
「自分がどこの出身かわかったら振られてしまうかもしれない。だから、一人でも生きていけるようにしないと」
小学4年生の女の子にこんなセリフをしゃべらせる現実が、今の日本にはある。
原発推進を遮二無二推し進めようという現政権への鋭い批判でもある。

中学演劇都大会一日目

午前中学校に出て仕事をこなしてから、下丸子の大田区民プラザへ。
蒲田で多摩川線に乗ったつもりが池上線だった。
そのため午後一番の「迷い猫預かっています」の冒頭を見られず。残念。
間口12メートル、奥行きもほぼ同じ広い舞台をどう使っているかという点で参考になった。
舞台の中央あたりからの部分を演技スペースにするため、美術準備室の壁と入り口を上手側に置いていた。
舞台前の一間ほどに道具を置かず、演技にも使っていないので不審に思っていたが、途中で憧れの男子を妄想するシーンで男子が登場し、SSを当てることで異空間という感じを出していた。
何となく午後の授業をサボって準備室にやってきた藍。拾った子猫の入った段ボール箱を抱えている。
彼女がなぜ今日に限ってここでサボることにしたのかは、不良の生徒との会話で明らかになる。
昨日、気になる男子にヒゲがあると言われ洗面所で産毛を剃ろうとして、カミソリを手にした自分の姿を見た時に怖くなってしまったというのだ。
理屈では割り切れない、中学生くらいの年代の少女の危うさをよく表しているセリフであり、演技だった。
掃除当番が来てからの隠れている二人を隠そうと奮闘するもう一人の美術部員を中心にしたアンサンブルが見事だった。

「STAR DUST☆七月の星くずたち☆」
キャストは4人だけ、セットも白い立方体の箱が4個だけというシンプルな演出。
星空などホリゾントを中心とした照明の美しさがよく映えた。
シンプルな割に暗転が多くて長いのが気になった。
ダンスフェス前に衣装に着替えるところ以外はいらなかった。
体操服のしたにダンス衣装を着込んでいてもできたのでは?
「保育園からの幼馴染が三人だけになってしまった」というセリフがアスミの父親がまだ漁に出られないというセリフ後にググっと生きてくる。
部活もバラバラだった三人が、中学3年生の7月になぜダンスフェスに参加しようということになったのか、その切実な願いが分かった途端、3人がとても愛おしくなった。
いつまでこの場所にいられるか不安に思っていた主人公が、父の船で南へ去って行くところで、アスミが帰ってくるまでここで待ってると宣言する。
これからも様々な困難が彼女たちを翻弄していくだろう。星屑と自分たちのダンスチームを命名したように、ダンスが途中で終わってしまったように。
それでも、海から吹く風の中見上げた星空の美しさや、ダンスの練習に汗を流した日々の記憶は、忌まわしい記憶の上で輝き続けると信じたい。
心地よい風が吹いているような爽やかな芝居だった。
「SAKRA2013」
さすが西澤先生の脚本だけあって、テンポの良さ、群衆の使い方の巧みさ、ダンスシーン、コミカルなシーン、シリアスなシーンのメリハリが巧みだった。
その本を18名の中学生がチームワーク良く、気持ち良さそうに、楽しそうに演じていた。
所々、音響のレベルが大きすぎたり、感情を込めすぎてセリフが前に出てこなかったところがあったのが残念。
しかし、ストロボを使ってのダンスシーン、ホリ幕前に三台並べた転がしによる逆光での交通事故、手紙のシーンでのSSの使い方など、スタッフワークが見事だった。
演じているうちに部員同士の絆が深まって行っただろうなあという印象を受ける舞台だった。
「ありがとう」
幕前でのしゃべりからの導入、緞帳が上がった時の照明の美しさなど、作品世界を大切に作っていることがうかがえる演出だった。
女の子が無理して男を演じていないのも良かった。
なぜ生き返りたいのか。
なぜあんな汚れた世界で生きたいのか。
我々が突きつけられている課題でもある。
生き返るための試験に落ちた人が去る時の中割幕の使い方が上手だった。
閉まる直前の「ああ……」というセリフに込められた絶望感とか、印象的だ。

午前中は残念ながら見られなかったけれど、震災をモチーフにしたものが7本中3本。3.11後の世界を生きる我々にとって、演劇でも避けて通れないものになっているし、教育の一環としての演劇教育ではむしろ積極的に触れることの方が多いのかもしれない。

4作品とも、照明がとても印象的だった。
色々とやりたいことをやらせてもらえるという環境を整えて下さっている現場のスタッフの皆さんのおかげもあるんだろう。

ボールペンで線を引く時気をつけるたったひとつのこと。

以前、ライフプランニングノートを手作りしたことがありました。
A4のリングノートに罫線を引いていったのですが、その時に、困ったのが、ボールペンのインクが定規について、ノートが汚れるということでした。
私はuni-ball signoの極細0.38が好きで、これで引いていたんです。
ボールペンなら、線の太さは一定ですし、色分けも好きな色を選んでできます。
唯一、線を引く途中でインクが出過ぎてしまい、定規にくっついて、定規を汚し、ノートを汚すのを何とかしたかった。
で、あることに気づいたら、何の事は無い、定規もノートも汚さずに線が引けるようになりました。
演劇部関係で舞台図とか書く時もストレスなく書けます。

何に気をつけたのかというと、

ボールペンを紙に垂直に立てる

ということです。

これだけで最初から最後まで均質な線が引け、紙を汚すことがなくなりました。

ひょっとして常識の範囲かもしれませんが、チップスとしてメモしておきます。